フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)はドイツの名門に生まれ、ヴュルツブルグ大学医学部教授だった祖父や父と同じく医学と自然科学を学びました。
大学を卒業して東インド会社に勤務した後、1823年に長崎出島の医官として来日しました。
日本滞在中は、楠本 滝 と生活を共にし、日本人初の女医となる 稲 を設けました。
また、長崎市郊外に鳴滝塾を開設して湊長安等日本人医師に西洋医学や自然科学を教授し、日本の近代化に多大な影響を与えました。
1828年に帰国しようとしましたが、その際当時禁制品の地図や書物が荷物の中から発見され、幕府に捉えられてしまいます。(いわゆるシーボルト事件)
翌年1829年に出国が認められ、帰国後は『フローラ・ヤポニカ』の編纂に打ち込みます。
学術性を高めるためにミュンヘン大学の植物学者ツッカリーニ教授(Joseph Gerhard Zuccarini)に協力を依頼し、共著者としています。
『フローラ・ヤポニカ Flora Japonica』は、江戸時代末期に西洋医学を日本にもたらしたシーボルトが中心となって編纂した植物図鑑で、その題名が示す通り日本の草花を数多く収録しています。
精密に描かれた本格的な彩色図譜は植物学的正確さにおいて優れているだけでなく、その美しさにおいても古今東西のボタニカルアート(植物画)の中で最高傑作とみなされています。
ところで、『フローラ・ヤポニカ』の美しい図譜は欧州の絵師によるものですが、その元となる原画を描いたのは日本人絵師川原慶賀です。
川原慶賀の優れた才能に着目したシーボルトは、日本滞在中慶賀に多数の植物図を描かせました。
『フローラ・ヤポニカ』は、シーボルトの西洋合理主義に根ざした高い科学的見識と川原慶賀の類まれな画才の上に成り立っており、こうした背景により世界に冠たる植物図鑑が生み出されたと言えます。
学名の命名に当たっては、嵩んだ出版経費を支援してくれたオランダ皇后Paulowniaの名前をそのままキリの学名(属名)としたり、また妻であった滝の愛称「おたきさん」に因なみアジサイにHydrangea otakusa という学名を当てたりと、シーボルトの律儀な性格を垣間見ることができます。
また、ツガ Tsuga sieboldii やヤマナラシ Populus sieboldii 等の 学名には、シーボルトの名前が用いられ自らの足跡を残しています。
この他、アカマツ、ゴヨウマツ等に、シーボルト等(Sieb. & Zucc.)の命名による学名を多数見ることができます。
『日本動物誌/Fauna Japonica』は、ドイツの名門に生まれ、江戸時代末期に西洋医学を日本にもたらしたシーボルトによって、長崎に滞在中(1823-1829)に採集した動物の標本や下絵に基づき、ライデン博物館の研究者と共に編纂されました。
『日本動物誌』には、絶滅したニホンオオカミも収録されており、今なお貴重な学術書としてその価値を保ち続けています。
本書に収録された鳥類、魚類、哺乳類/爬虫類、甲殻類の図譜を描いたのは欧州の絵師ですが、その元となる原画を描いたのも日本人絵師川原慶賀です。
川原慶賀の優れた才能に着目したシーボルトは、日本滞在中、慶賀に植物画、動物画等を数多く描かせ、それらを元に、博物誌、『日本植物(Flora Japonica)』、『日本動物誌』、及び『日本』をまとめました。
これら三部作は、日本について欧文で記載した最初の資料であり、これらによって日本が西欧に広く紹介されました。
シーボルトの西洋合理主義に根ざした高い科学的見識と川原慶賀の類まれな画才によって、こうした優れた博物誌が生み出されたと言えます。
★シーボルト「ファウナヤポニカ」(魚類-1)のアートカタログ
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